辻 省吾君が2002年1月12日に亡くなりました。
「おいっ 辻」 「おっ 南雲か」と言い 合って40年あまり。 一番 気の置けない友だったと思います。 63才と10か月の生涯 でした。2002年11月に新しいお墓が出来、今では そこで安らかに眠っています。 静かで 明るく南向きの暖かい須和間霊園はとてもいい環境。 きっと「なかなか居心地いいぞ」と 言ってくれていることと思います。 人間はニ度死ぬと言われます。一度目は物質的にその身体がこの世から無くなった時。 そしてニ度目は、人々の記憶からその人が消えた時。そうであれば、遺族と62会の仲間 が居る間は、彼は決してニ度目の死を迎えることはないでしょう。 「あの人は、スキーに行っていて、今は留守にしている。そう思うことにしています・・・・。」 奥さんの雅子さんは言う。 毎日、世界中のスキー場を掛け回り、思いっきり滑りまくって いてくれることを信じています。 ・相模原市の介護付きホームに入居していた平石信行君が10/21に逝去しました。 同市内に住んでいる長女尚子さんからの突然の連絡で、声を失いました。 直接の死因は誤嚥性肺炎とのことでした。 新型コロナ禍で面会禁止となって依頼、2年間程会っていないものの、時々は電話を し合っていました。 10日前にも電話をして、面会できるようになったら、また、久保田 千寿(彼の好きな酒)で一杯やろうや、なんて約束していました。 62会天国支部に送り出し、本部の方は悲しさ・寂しさでいっぱいです。 (R3年10月 記) R5年5/16(火)に、(珂)62会を代表して、平石君のお墓参りに行って来ました。 1周期の時に、一度、62会としてお墓参りをしたい旨、尚子さんに申し入れていました。 京王線橋本駅で待ち合わせて、尚子さんのWV車で案内してもらいました。 相模原市の庭園陵墓「紅葉亭」という、相当広い墓地でした。 62会としての香典と ご仏殿お菓子として、ひたちなか市江戸屋の「瓦造部」を持参しました。 (R5年5月 記) ・暮れの喪中挨拶状で、富山能省君が5/31に永眠されたとのこと、秀子奥様から連絡が ありました。 最も親交が深かった平石君も、経過を全く知らなかった由。時勢柄、直ぐに 訪問する訳にもいかず、ただ茫然としています。 大事な62会メンバがまた一人、天国支部へ移ってしまい、寂しく悲しい思いです。 辻君、そちらの幹事役、よろしく頼みますよ。 (R2年12月 記) ・ひょんなことから、辻君が設計したペン書きオッシログラフの日立評論への論文記事が 見つかりました。QGSー2形というガルバノメータ方式の高速記録計で、随分苦労して 製品化していたことを覚えています。私も実験時に、大変便利に使わせてもらいました。 http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1968/11/1968_11_08.pdf#search (R1年12月 記) ・H30/1月に、木村君が前年6月に亡くなったとの連絡が、行枝奥さんからあった。 また一人が天国62会に移ってしまい、残された者は何とも寂しい。 同じ電計設配属 同士だから、昔話もいっぱいだろうね。 お洒落で海外旅行が好きだったから、どんな 毎日になるんだろう。 (H30年2月 記) ・10月のクラス会で長野の善光寺に行った時に、辻君のお墓お参り用お線香を買って きました。 これまでは、カワチ薬品で青雲線香を買ってあげていましたが、ずうっと 気になっていました。 そんなのどっちでもいいよ、と彼は言うでしょうが、幾分何か いいことがあるかも知れません。 来年1月は14回目の命日になります。 (H27年11月 記) ・平石君の奥さん、泰子(ひろこ)さんが10/15に膵臓がんで亡くなりました。 今頃は 62会の様子を、辻君と話し合っていることでしょう。 定例会に暫く出席していないので、どこか体調が良くないのかな、程度に思っていた けれど、こんなことになるとは・・・・・。 葬儀は家族葬に近い少人数で、しめやかに 行われました。気持ちのこもったいい葬儀でした。 この悲しい思いは、辻君に次いで、 いつまでも消えることはないでしょう。 そして、一人暮らしの平石君のこれからの生活 が何とも心配です。 (H26年10月 記) ・郁雄君が結婚することになったと連絡がありました。 辻君はあんまり気にしていないだ ろうけれど、一つのマイルストーンだと思います。 おめでとう。 いつまでも幸せな家庭を 築いていってください。 早いもので、来年は13回忌になります。 (H25年9月 記) ・「(那珂)50年史」という立派な本が送られてきました。 歴代消防隊長のところに、辻君 が第7代目隊長として、載っていました。 在任期間は1983年6月〜1986年8月。 3年間以上もやっていたのかとの思いで、改めてご苦労様でした。 (H25年5月 記) ・3/1の50周年会の宴席で、稲部君から、またスキーに行こうや という話がありました。 辻君が居れば、直ぐにOKとなって、話しが進んだのにという思いでした。 彼を思い出し ながら、しばし、スキー談議に花が咲きました。 (H24年3月 記) ・ 2012年1/12は10回目の命日となります。 また、62会メンバお揃いで、お墓参りに行 きます。 あれから、もう10年になるのかと、改めて、時間の速さに思い入ります。 3月の50周年会出席者たちの顔を、きっとどこかで見ていてくれると信じています。 (H23年12月 記) ・若い時のテニス仲間の佐藤(邦)君からメールをもらいました。 色々と検索中に、この ページに出会った由。北海道家族旅行の帰りのフェリーで、当時、HS取締役だった辻君 とばったり会い、一緒に風呂に入った思い出。仕事では、辻君設計のγ線厚さ計の検査 担当で正月休みも毎日出勤したとのこと。そして、「会社で付きあった人の中で辻さんが 人格的にも一番立派な人と思います」と結んでありました。 佐藤君は退職後もテニスを続けており、県シングルスでは何度か優勝していると聞いて います。 (H23年5月 記) ・1月中頃、副島君の訃報の連絡があった。 昨年の夏末ということなので、もう天国で 二人が会って、天国62会設立の話をしているかも知れない。 幹事は辻君だろう。 会社で寮でスキーでと、想い出いっぱいの仲間が居なくなるのは、残された者には 本当に寂しく悲しい。 (H23年2月 記) ・2012年に、(珂)62会の入社50周年記念会開催の話しが出ている。 1962年に(珂) 配属となったのは16人。 その後、転勤してきた諸兄を入れると、メンバは22名。 勿論、全員が辻君とは懇意。 彼が亡くなって10年の年にもなるので、色々と懐かしい 思い出話しが飛び出してくることでしょう。 何か、彼が私に託したかったことをやり落としている気分を、幾分でも分担してもらえる ようならうれしいのですが。 (H22年12月 記) ・以前、(珂)に勤務していたことがあるという青木さんという方からメールを頂いた。 当時 お世話になった、おかめ別館をネット検索していたら、本ページに行き当たった由。 下の「入社当時」のところに、ちょこっと書かれている曙寮のことも、懐かしがられていた。 これも彼が取り持ってくれた縁だと思います。 (H22年9月 記) ・8/13のTVで「思い出青春歌謡曲」という番組をやっていた。 倍賞千恵子が「オホーツク の舟唄」を歌った。 知床旅情の元歌である。 この曲を聞きながら、辻君を思い出した。 知床旅情は彼の持ち歌で、よく歌っていた。 森繁調とはまた違う、味のある歌いっぷりで 道産子ならではの情緒がありました。 (H22年8月 記) ・5/30のNHKのど自慢大会は北海道の滝川市からだった。 どこか懐かしい名前と思っ ていたら、彼が結婚式を挙げた所と気付いた。 確か、おじさんが街で写真館をやって いると言っていたように思う。 辻君は満州に生まれ、北海道で幼少期を過ごし、大学は富山、そして就職して茨城に。 どこが自分の一番の故郷かとは聞いたことはなかったが、どこも思い出いっぱいという 中で、やっぱり、北海道が一番好きだったんだと思う。 郁雄君が北大に入った時は、 さぞかし嬉しかったんだろうと今更ながら感じています。 (H22年6月 記) ・62会の忘年会の時、寮時代の話になり、誰と誰が同室だったっけということに。 岩間と稲部、小原と副島、富山と武藤、大竹と皿井、平石と岩藤、木村と峯本、そして、 辻と南雲は110号室。 実家が近かった上野(水戸市)と庄司(日立市)は、その当時は 入寮者がいっぱいで寮に入れず、自宅通勤だった。 同室者は性格の違う者もあった中で、110号室はどちらかというと、似た者同士だった ように思う。 久し振りに寮生活を思い出した。 (H21/12月 記) ・毎食事のお茶を飲むのに、アルミの急須を使っている。 入社時の一般教育で日立の寮 に居る時に買ったように思う。 当然、曙寮でも使っていた。 私は子供の頃から、緑茶を 飲む習慣があったので、必要だった。 その他に部屋で使っていたのは、電気こんろと 電気ポットだが、両方共、今は残っていない。 形も変形し、色も黒ずんでいるが、何故か新しいのと取り替えられない。 酒は飲まなかっ た辻君と緑茶や紅茶をこれでいれて飲んでいたのだ。 (H21/10月 記) ![]() ・小原君からメールが入り、H19/12月追記分の間違いを訂正してくれました。 そして コメントも寄せてくれました。 色々と有難う様。 〜辻君と二人で奥日光の金精峠から温泉ケ岳(ゆせんがたけ)と更に北にある根名草山 (ねなくさやま)を縦走して泊まった最奥の日光沢温泉が忘れられないですね。 03/11に寄った水戸の我楽多展の前に再訪して辻君との山旅を追想してきました(北関東 の山旅)。 弥陀ヶ原は今年の五月、かみさんと行ってきました・・・。 〜 (H21/8月 記) ・筑波台団地の曙寮の前はしょっちゅう通っている。 先ずは110号室に目が行き、昔を チラッと思い出して通り過ぎる。 入社後の2年間程、同室だった。 6畳1室、畳敷き、備え付け本棚の2人部屋。 布団を 敷いて寝るだけのスペースなので、家具類はない。 各階のトイレの手前側が洗面所、 そこに電気洗濯機が設置されてある。 食堂の隣りがロビーで、大型テレビがあって、 NHKの大河ドラマなどよく見ていた。 風呂はA 棟とB棟の間に大浴場があり、水曜日 以外は毎日入れた。 今から思えば不自由な生活だったが、当時はそれなりに満足して いた。 何より、会社と仕事が第一の時世だった。 (H21/3月 記) ・入社時は、辻君は電気計器設計部、私は工業計器設計部に所属していたが、1971年 に統合されて計器設計部となり、同じ所属となった。 彼が担当した計測器の設計の最後 の頃の主任技師時代に、熱間圧延用γ線厚さ計がある。 徹夜続きで苦労して製品化 したもので、製鉄会社6社から、システムの受注ができた。 この功績が幾分かはプラスに 働いたかも知れないが、翌年、当設計部の副部長に昇格し、主任技師だった私の上司と なった。 完全な管理職となっていた彼は、まだ設計業務が担当できる私を、お前はいいよ なあ とよく言っていた。 いつまでも、設計担当者のままでいたかったのだと思います。 その後、1984年には製造部の部長となり、工場消防隊の第7代消防隊長も務め、紺の 制服姿は良く似合い、格好よかったことを思い出します。 (H21/1月追記) ・TVで阿久悠の特集をやっている時に、「津軽海峡・冬景色」のところで、青函連絡船の 話しがでてきた。 うんうん、乗ったことあるよ、と当然のように思っていたのに、まてよ、 よく考えてみたら、彼の結婚式に行った時に乗っただけじゃないか。 彼にとっては思い 出いっぱいの青函連絡船。 折角の機会だからと、わざわざ列車の旅をして、この私に 体験させてくれたのだったように思える。 甲板で海を見ながら、色々と説明してくれた ことを覚えている。 青函連絡船が廃止されたのは昭和63年だから、その20年前の ことで、これが廃止されることは、その時まだ知らなかったと思う。 (H20/8月 追記) ・TVのNHK歌謡コンサートを見ていたら、彼が「・・・とんでとんでとんで・・・回って回って 回るう」といういい歌を歌っていたことを思い出した。 何という歌なのか知らないが、いい 声で歌っていた。 この際、調べてみたら、円広志の夢想花という曲だった。 インター ネットから聴いていると、彼の歌声が耳に聞こえてくるようだ。 http://jp,youtube.com/watch?v=zrVB5Ru31jI (H20/6月 追記) ・山歩きを続けている小原君からの葉書を見ていて、ふと思った。 その原点は辻君が 皆んなをあちこち山歩きに連れて行ったことにあるのではないかと。 寮時代に、尾瀬の 燧ケ岳や弥陀ヶ原から立山三山縦走など、よく行っていた。 その当時、私はあまり気が 進まなかったので、参加しなかったけれど、62仲間は皆んな一緒に行っていた。 特に、 立山は、大学時代に毎日目の前にしていたので、大好きな山だったようだ。 今度、 小原君に会った時に聞いてみようかと思っています。 (H19/12月 追記) ・彼が逝去してから半年程後のこと。 東京の副島君から電話があり、その内、時間を 作って、こっちへやって来ないかと誘った折、62会も何か寂しくなったからなあ、と言わ れた。 いなくなったのは辻だけで、皆んな元気だぜと返したら、その辻がいないから寂 しくなったんだよと言われた。 そうなんだと改めて認識した。 さすが副島君だ。 この 言葉はずーっと頭の中に残って忘れられないでいます。 (H19/7月 追記) ・入社3年目の前期に(4〜9月)、彼と一緒に曙寮の寮委員をやった。 寮賄いを委託して いた魚国サイドより、毎週水曜日夕食の特食を止めたいとの申し入れがあった。 寮の 食費は朝・夕2食付き1か月4,200円だったと思う。 この費用の中で、週1回の特別食 (トンカツなどの肉料理が多かった)は難しい由。 粗末な寮食事の中で、水曜特食は、 寮生の楽しみだった。 彼が色々と交渉してくれて、特食は継続されることになった。 独身寮と言えば、直ぐ、食事が不味いと返されたものだったが、彼はあまり文句を口に しなかった。 日曜日の昼食は出なかったので、よく水戸の森レストランに行って、ポーク ソテーを食べたものだ。 この当時の給料は税込み25,000円程度。 水戸市内には、市電 が走っていた。 ・・・・・ひょんな拍子に昔を思い出しました。 (H19/4月 追記) ・例年どおり、1/12の命日に、辻雅子さん朋子ちゃん二人のチビちゃんと62会の仲間で お参りに行きました。 5年も経ったんだなあとしみじみ感じ入りました。 お墓にお参りした後、彼も好みの、ル・クープルのシュークリーム持参で自宅の仏壇にも、 揃ってお参りに行きました。 この日のベストツーショットは大我君と雲爺だったようです。 (H19/1月 追記) (岩間 章君 撮影) ・WOWOW TVで映画「火火」を見た。 実在の女性陶芸家の半生を描いたもので、主演、 田中裕子。 前々から一度見たいと思って、機会を伺っていたら、朝の新聞で見つけた。 しかし、焼き物の部分より、白血病の息子との係わり合いがメインテーマのよう。 終始、辻君のことを思い出し、気が重かった。 笠間の陶芸教室に誘ったら、彼はどんな物を作るだろうか。 少し大き目の粉引茶碗を 作って、おれはこれで毎日ご飯食べるぞー と言いそうだな。 (H18/10 追記) ・新聞を見ていて、「パブリカ」という文字が眼に入った。 辻君が最初に乗っていたのが、 確か、白のパブリカだったと思う。 クラウン、コロナに次ぐトヨタ3機種目の車。 当時は、 スバル360全盛の中、700ccのパブリカはれっきとしたセダン。 ちょっと気張った運転に、 幾度か乗せてもらったことを思い出す。 この車種は1978年に製造中止となり、今の スターレットに引き継がれたと聞いている。 (H18/7 追記) ・2/3、朋子ちゃんに長男 大我君誕生。 62会奥さんたちの見立ては専ら イケメン。 さぞ喜んでいることだろうね。 以外と厳しいとこもある、しかしやっぱりやさしいお爺 てとこかな。 おんぶして、近所を散歩したりするんだろうな。 (H18/3 追記) ・愛知万博に行ってきました。 スイス・パビリオンにはアルプスの山々がそびえ立っている。 彼が水戸スキークラブのメンバと一緒に、スイスにスキーに行ったのが2001年2月。 62会仲間の集まりで、写真を交えてうれしそうに話すあの顔が想い出される。 館出口の ショップで真っ赤な帽子を記念に買いました。 本当は彼にかむせた方が似合いそうだと 思いながら・・・。 (H17/7 追記) ・何時だったか、TVを見ていたら、「千秋 実*」という懐かしい名前が出ていました。 辻君の親戚筋とのこと。 大正6年生まれ、平成3年88歳で逝去。 黒沢 明監督映画の 常連役者で、いつも出て、渋い演技をしていました。 どこか雰囲気が、彼に似ているような ところがあります。 何度かは会ったこともあったことでしょう。 * 主な出演映画 :野良犬、羅生門、生きる、七人の侍、蜘蛛巣城、隠し砦の三悪人、 五番町夕霧楼、花いちもんめ、その他 (H17/6 追記) ・H17年の命日お墓参りは、雅子奥さんと62会メンバーで、1/11に行ってきました。 晴れて幾分暖かく、彼のお参りはいつも天気がいいと再確認。 その後、辻邸にお邪魔 して、仏壇にお参り。 郷里からもらってきた、わらびの塩漬けを少々おすそわけ。 去年の春に採ったのを塩漬け保存したものを、塩抜きした。 これが以外とうまい。 とても 塩漬けしておいたとは思えない。 辻君の嫌いな物は何かあったかな、と暫し考えました。 (H17/1 追記) ・日立計器の九十年誌の仕事が終わってからと思って、はっきりとは言ってなかったが、 辻君に頼みがありました。 ひたちなか市民オーケストラの事務局長。 彼はフルートを 少しやっていたので、オケには先生になってくれる人が何人もいます。 何年かすれば、 一緒にベートーベンを演奏できたことでしょう。 そういえば、歌の方でもバリトンのいい声をしていました。 カラオケでは仲間内ピカ一。 新宿で全社62会があった後、近くの居酒屋「どびん」で歌いまくったことを覚えているかな。 (H16/11 追記) ・7/13お盆の入りに一人でお墓参りをしてきました。 前日の月命日には、62会の奥方が お揃いで出向いているので、こちらもと思い、庭の花を数本手折って行きました。 そういえば、入社後何年の頃だろうか、彼から海釣りを教えてもらった。 大洗の堤防から の投げ釣りで、いしもちや鱚や鰈が結構釣れた。 その後 間もなく、堤防が壊され、あまり 釣れなくなってしまった。 もう何十年も行っていないが、釣り道具はまだ残っているので、 また始めてみようかと思い直している。 釣れたら、夜の酒の肴にして、彼を想い出すこと でしょう。 (H16/7 追記) ・H16−1/12、3回忌の命日に家族と62会の仲間で、お参りに行って来ました。お墓に 10時集合。この日も快晴の冬晴れ。幾分暖かい陽射しの中で話し合っていると、今にも 辻君も顔を出しそうな感じ。62会スキー計画でも立てようか・・・・なんて言いそう。新しい 短めのスキーで、格好いいとこ見せたいんだろうなあ。 8kgとすっかり大きくなった萌花ちゃんを、たけ爺とくも爺が代わって抱っこしました。 (H16−1/15 追記) ・H15−4/21に朋子ちゃんに赤ちゃんが生まれ、萌花ちゃんと名付けられました。 5/8に 見せてもらいに行って、代わりに抱っこしてきました。 間違いなく、母親似の美しい女性に なることでしょう。 62会 お爺ちゃん第1号になったね。 (H15/5 追記) ・先日、何かの折に、「安寺、持方」という言葉を聞きました。 ここ何十年も忘れていたこの 地名。 入社当時、平家落武者の部落があると聞き、二人で、竜神峡の亀ヶ淵のところで 野宿して、安寺(あでら)、持方(もちかた)辺りをハイキングしました。 農家で水を1杯 頂いたことを覚えています。 辻君が亡くなって1年5か月近く。 今でも毎日、必ず数回は彼のことを思い出しています。 (H15/5 追記) 本音の弔辞 1月15日の告別式は雨だった。 式の中で、友人代表として、弔辞を読み上げた。 始めから、弔辞を読むのは自分だと 思ってはいたものの、多分、声が出ないだろうという 気がしていた。 やはり 途中で、声が詰まってしまった。 「辻君 精一杯生き抜きましたね。」で始まり、「64年間という まだまだ 短い期間 だったけれど、君としては 自分の人生を 思い切り 燃やし尽くしたものと 思います。」 と続けた。 大勢の人の前では、こんな文句しか 言えなかった。 本当の気持はそんなものではない。 「おいっ 辻。 死んでしまうなんて、約束違反だぜ。 1月中には 退院の筈だったじゃないか。」 「やっと仕事を終えて、人生の楽しみはこれから だというのに。 やりたいことがいっぱい残っているんだろう。」 「雅子さん、郁雄君の将来 作りがまだできてないよ。 朋子ちゃんだって、まだ 結婚したばかりじゃないか。 いくら何でも、 これでは早過ぎるぜ。」 「62の皆んなで スキーに行く件はどうなるんだえ。 台湾グルメ旅や 秋山郷露天風呂めぐりなんかも考えていたのに。何も計画する気がなくなったよ。」 「・・・・・」 「・・・・・・・」 「・・・・・・」 しかし 視点を変えてみて、「幸福なる状態にて、その生命を終えし者のみを幸福なりと考う べし」(アイスキュロス)という見方からすれば、一番の幸せ者だったかも知れない。 何と いっても、この数年は、人生で多分 最高に幸せな期間だっただろうから。 時々、夢にも現われ、未だに、辻君がいなくなったという実感がわかない。 しかし、残された 者としては、相当に大きな精神的ショック受けて、まだ立ち直りに時間がかかる。 病気について 「急性リンパ性白血病で入院する」と、本人から電話をもらったのが、2001年8月26日。 一瞬、声が出なかった。 翌日、県立図書館に行って、病気のことを 色々調べた。 最近は、 いい薬が沢山あること、治療技術も日進月歩で、プロトコルもかなり確立されていること等々 2週間程、医学専門書を読みあさった。 そして、一流の病院、医師の下で、体力さえもてば、 必ず直る、との見通しを得た。 白血病細胞をやっつけるために強い抗癌剤を投入すれば、 半面、強い副作用がある。 正に 体力との戦いである。 実際、凄絶な状況もあった。 第1ステージ、第2ステージを戦い抜き、脳や脊髄に潜む白血病細胞を再度やっつける ための 第3ステージの治療中だった。 白血病細胞は無くなり、白血球数の上昇を待つ ばかりのところだった。 本人も、もう少しの辛抱で退院できると、固く 信じていたと思う。 1月12日の夕方、奥さんから急変の電話をもらって、病院に駆けつけた。 病室に着いた 時には、もう、意識がなかった。 死亡原因は、敗血症性ショック となっている。 感染病予防のための抗生物質投与で、耐性のできた菌が白血球の少ない体内で、急速 増殖してしまい、発生する多量の毒で死に至ってしまったということらしい。 5か月程の入院生活だったものの、遺族や私達にとっては、全くの急死である。 死んだ なんてうそ だろう、という気持である。 入社当時 昭和37年(1962年)に日立製作所に入社。 1か月の集合教育と更に1か月の工場 実習をやった後に各事業所に配属となった。 創立2年目のピッカピカのビル工場 「那珂 工場」に配属されたのは16名。 (珂)62会の同期生である。 しかし、彼と知り合ったのは その前の年、大学4年生の工場実習の時である。 日立への 就職は各国立大からトップクラスが集まり、5月には内定していた。 内定者は夏休みに、 自分の好きな工場を選んで、工場実習をやった。 会社側、学生側共に、選んだ相手を 確認するのには 良い機会だったと思う。 辻君は富山大の工学部 電気工学科であって、 実習先は那珂工場の電気計器設計課だったと思う。 出来たての工場で、独身寮は建設 途上。 したがって、1週間は大洗のおかめ別館に宿泊した。 大洗街道の平戸橋の袂の 釣り宿で、美人4姉妹の居る心温かい宿だった。 前の涸沼川で泳いだり、宿の主人に船の 櫓漕ぎを教えてもらったり。 今でも忘れられない懐かしい想い出である。 もう1週間は確か 商工会議所の宿泊所に泊まったように思う。 勝田駅前通りを500m程 の右側、今の商工会議所ビルの辺りだったように記憶している。 賄いのために、工場の 食堂をやっていた魚国の板長、徳さんが来てくれ、酒と女の色々な話しをしてくれた。 実習生は収容人数の関係から 2班に分かれて、宿を変えた訳である。 さて、那珂工場配属の半数近くが、前年の夏、学生実習に来た連中だった。 独身寮 「曙寮」は完成しており、辻君と私は、A棟110号室の住人となり、2年余を同室で暮す 定めとなった。 二人で竜神峡の滝壷近くに野宿して、男体山辺りを歩き回ったことも 懐かしい。 同じ理器部で職場実習をして、彼は電気計器部電気計器設計課に配属 となる。 本人の希望が幾分ずれたかも知れなかった。 設計者としての長い人生の 始まりである。 2年目の寮ダンスパーテー委員。 会社の女の子達にダンス講習会をやるのも 役目。 相手をした女性にしっかり捕まえられて、おろおろしていた彼のことが忘れられない。 3年目には、一緒に寮委員を務め、同時に部屋も分かれ、個室となった。 スキーのこと 馴染んで育ってきた地が、北海道と富山ということもあって、スキーが大好きだった。 地方大学出身者の多い62同期は スキー愛好者が多く、独身時代は毎年皆んなで、 蔵王に行っていた。 当時は、会社の休日は日曜日だけだったので、二日連休を狙って 出かけた。 夜行列車の床に新聞紙を敷いて眠り、早朝 蔵王に着いて、1日、目一杯 滑った。 弘前流 稲部、長野流 岩藤、岩手流 皿井、仙台流 富山、東京流(?)副島、 新潟流 南雲という我流スキーヤーの中で、辻君のスキーはパラレルの一番きれいな 滑りだった。 ゲレンデだけでなく、樹氷の中を粉雪踏みしめてのスキー山歩きも得意 だった。 宿は最初の頃は山形屋で、その後、鶴屋。 おひつを抱えて晩飯腹一杯の一人 だった。 翌日は朝一番から10時頃まで滑った後に、山形市で鍋焼きうどんを食べ、干し 柿を土産に買って帰るのが 決まりだった。 蔵王が飽きたので、鳴子、天元台、志賀高原にも揃って出かけたが、彼の青春時代 ピカ一は蔵王だったと思う。 スキーのための夏のトレーニングという意味もあって、皆んなでテニス部に入った。 会社の敷地内に2面のアンツーカーコートがあり、指導者は宗光庶務課長と吉田先輩。 硬式テニスは彼も初めてであり、良く 練習していた。 日曜日には、多賀工場や原研 にも、他流試合に行ったし、県大会にも出場した。(当時は硬式テニスをやる人が少なく、 簡単に県大会に出られた。) テニス部活動は3年は続いたように思う。 定年退職後に再びスキーに戻ることになる。 水戸シニアスキークラブに入り、そこで 幹事役を務め、計画立案や世話役をやっていた。 2001年春はスイス行きの話しを 一杯の写真を見ながら してくれた。 今年の7月にはニュージーランド行きが決まって いて、クラブお揃いのヤッケも出来てきていた。 (蔵王スキー場にて) ![]() 会社生活 彼の設計した製品の中で、特に 記憶に残っているものの一つがQGS形ペン書きオッシ ログラフである。 可動線輪式の高速記録計で、色々な実験に便利に使わせてもらった。 開発時は試行錯誤の繰り返しで、随分苦労していたようだったが、自分なりには、納得 いく製品に出来上がった様子だった。 地道に技術をきちんと積み上げて開発・設計して いくタイプだった。 会社生活の最後の仕事が、日立サイエンスシステムズ社でのISO認証取得だった。 ISO9000品質システムとISO14000環境システムの認証取得の担当・責任者を務め、 無事 取得できた。 特に 後者については、色々と調査して、(計)*のやりかたとは違う 方式を作り上げた。 得意のパソコンで各種フォーマットを決めたり、自分自身で書類を 作成したりして、本当に 自ら手を染めての仕事振りだった。 この結果、退職後に、他の 会社の認証取得コンサルタントをやることも選択肢の一つだったと思う。 退職後、(計)*から、「日立計器の九十年」誌刊行の編集委員を依頼され、1年間、 副委員長を務めた。 電気計器部門の実質取りまとめ者として、無償ながら、週に数日 は会社に出向いていた。 執筆者との打合せや原稿チェック、更には、各原稿を自分で パソコンに打ち込み、原紙作りを行なった。 自分の手で、一つずつ 原紙に仕上げていく ・・・・・。 彼のような"縁の下の力持ち"が居なかったなら、この本は出来なかったことだ ろうと、つくづく思う。 九十年誌は2001年5月に変形A4版257ページで立派に発行 され、各方面に配付された。 人生最後の仕事となってしまった。 *注 : 日立製作所那珂工場は(略称(珂))、1991年に同 計測器事業部と名称 変更し(略称(計))、更に、2001年10月には、日製産業(株)と事業統合し、 (株)日立ハイテクノロジーズとなった。 北海道で結婚式 昭和43年4月、北海道の滝川で結婚式を挙げた。 友人代表として 一人、出席させて もらった。 彼と二人で、特急列車と青函連絡船を乗り継いでの長旅。 食堂車に入り浸って メニューの上から下まで食べ尽したのも、彼らしい。 62会メンバの結婚披露宴では、新郎 の生い立ちや仕事振り、エピソードなどを 模造紙にマンガ調に描いて 紹介することが、 しきたりになっていた。 この時もこの通称「紙芝居」を皆んなで作って、私が持参し、説明 させてもらい、列席者に喜んで頂いた。 また、何の風の吹き回しか、彼と二人で、「荒城の 月」を歌ったことを憶えている。 その時の彼の幸せ溢れる顔が想い出される。 幸せいっぱいのもう一人が雅子夫人であることは いうまでもない。 グルメ振り 酒は直ぐ赤くなるので「アルコール試験紙」と言われたが、食べ物については、「なんか 分からない物は先ず 辻に食わせろ、大丈夫なら 皆んなで食おう」と言い合っていた。 まだ 独身の頃だったと思う。 北海道から沢山のししゃもが彼のもとに届き、皆んなで 焼いて食べた。子持ちししゃもしか知らなかったが、これらは 雄ししゃもだった。 これが 本当のししゃもというもんだと聞かされ、そんなものかと思いながら食べた。 ところが、 最近、これと同じような物に出会った。 鵡川のししゃもという物で、これがまた うまい。 デパートの物産展で、1尾 100¥近い値段だった。 それ以来、水戸京成百貨店で北海道 物産展があると、いつも買って来て、辻君を偲んでいる。 とにかく、食文化には造詣が深く、そして、人一倍、食べることを楽しんでいた人間だった。 表題のグルメとはちょっと違う、別のタイプの旨い物好きだったと思う。 春になると 例年、私の郷里 新潟から、山菜が送られて来る。 木の芽(あけびの新芽) やらこごめ、うど、あさづき、青菜等等。 辻君も雪国の山菜が好きだった。 今年からは、 一番喜んで食べてくれる人物がいなくなってしまった。 |
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